balladtalk

第13話 妖精の国に行った実在の詩人
『うたびとトマス』("Thomas Rymer", Child 37A)

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‘Rhymer’s Tower’(やまなか・みつよし撮影)

前話の作品『サー・パトリック・スペンス』と双璧をなすアンソロジー・ピースといえば、おそらく、『うたびとトマス』と言って差し支えないだろう。

トマスが野原で寝転んでいるところに、馬に乗った女がシダの丘を越えてやってくる。「スカートは草色の絹織りで/マントはきれいなビロード製/乗った馬のたてがみに/五十九個の銀の鈴」がついていたという。トマスが帽子を取ってお辞儀をし、「ようこそ 尊(とうと)き 天の女王様」と挨拶をしたとき、彼は、聖母マリア様だと思ったようである。しかし、女は妖精の国の女王で、トマスをたずねてきたのである。自分と一緒にこれから妖精の国に行って、7年間自分に仕えるのだと言う。女王はトマスを後ろに乗せて、「四十日と四十夜 正直ものトマスは/赤い血に膝までつかって行きました/お日様もお月様もみえません/海鳴りの音が聞こえるばかりです」とうたわれる。妖精の国への道中である。やがて「緑の園」に辿り着き、しばらく休憩する。女王は三本の道を示して、シダの丘をめぐる道が妖精の国へ至る道だと教える。女王はトマスに一つの約束を求める。それは、妖精の国で見たり聞いたりしたことは決して他言してはならない、ということであった。「トマスの上着はてかてか光り/靴はすべすべ緑のビロード/そして七年の月日が過ぎるまで/トマスの姿はみえません」とうたって、この歌は終わる。

スコットランドに最初のキリスト教会が設立されたのは4世紀末(397年)であるが、この歌には、民衆がもともと持っていた土俗的信仰(=フォークロア)と外来のキリスト教信仰が混ざり合っている点が如実にうかがえる。女はシダの丘を越えてやって来て、妖精の国へ至る道を教える時、それは「羊歯の丘をめぐる道」だと言う。シダの胞子は、それを手に持ったり靴の中に入れていると姿が人に見えなくなると信じられていた。丘や森は、この世と異界(空想、想像の世界)を隔てる境界線であり、バラッドではしばしば重要な舞台として設定される。女 のスカートが草色で、トマスが妖精の国で履く靴が緑であったとうたわれるが、'green'は一般的に「妖精色」と言われている。女王とトマスの道行きは 「四十日と四十夜」続いたと始まるが、この表現はたちまち『マタイ伝』の第4章1、2節を想起させる。「さて、イエスは、御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。四十日と四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。」— イエスはこうして荒野で神への忠誠を試されたが、トマスが女王への忠誠を試されるに必要な期間を、バラッドの民衆は、イエスの試練の期間から割り出したのであろうか。期間はキリスト教的設定でも、トマスが血の川を渡り、太陽も月も見えず、ただ海鳴りの音を聞いて行く道筋は、深く地中へ下る旅路のようである。異界へ至るには水あるいは血の海をくぐらなければならないという古来の信仰、ギリシア神話のステュクス川(三途の川)、あるいはハデス(黄泉の国)にも通じる、人々が遠い昔から想像した異界への道筋なのである。

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‘Eildon Tree Stone’
(やまなか・みつよし撮影)

ここで興味深いのは、死者の国(ないし地獄)と妖精の国が何ら区別されないことである。亡霊、妖精、悪魔たちの住処は、森であったり、丘や山であったり、地中、水中、海の向こう、島であったりして、特定されない。恐らく民衆の捉え方は、「この世」に対する「異界」という、極めてゆるやかな二元論で、両者間の、そしてそれぞれの内部での境界は取り払われて、自由に交流できると想像していたのではないか。二人が辿り着く「緑の園」は、キリスト教的には、言うまでもなく、「エデンの園」を暗示する。「エデンの園」と捉えれば、「あの果実(み)に触れてはなりません」と言う女王の言葉は、明らかに、『創世記』2章、3章の禁断の実を暗示することになる。しかし一方で、触れてはならない理由として、「地獄のすべての呪いが/この国の果実(み)にかかっています」という女王の説明は、エデンの園には似つかわしくない。キリスト教的な暗示の延長線上で進んでゆけば、女王がトマスにすすめるパンとワイ ンはイエスの聖体を暗示することになろう。しかし、それは広くバラッドに出てくる一般的な食べ物と飲み物でもある。女王がトマスに指し示す「正義の道」と 「悪の道」は、「狭き門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこを行く者は多い。しかし、命にいたる門は小さく、その道は狭い。 そして、それを見いだす者は少ない。」と述べられる『マタイ伝』7章13、14節を想起させる。トマスが案内された妖精の国へ至る道は第三の道であった。 それは、宗教的束縛から解放された、人々の想像力が生み出した世界へ至る道である。

しかし、この歌の主人公トマスは実在の人物であっ た。アースルドゥーンのトマス・レアモント (Thomas Learmond of Erceldoune,1210?-97?)は13世紀に生きた詩人・予言者で、彼の名声は19世紀後半まで民衆の間に根強く残っていたという。'Erceldoune'はエディンバラの南東30マイル、現在の地名で言えば「アールストン」('Earlston')で、この村の教会には彼の墓石が、その文字をほとんど解読できないほどに風化した姿で残されており、通りの一角には 'Rhymer's Tower'と呼ばれる住まいの廃墟がある。トマスが女王に出会った丘の麓には 'Eildon Tree Stone'と呼ばれる大きな石碑が建っている。丘全体は 'Eildon Hills'と呼ばれる三つの丘から成っている。

古来詩人は予言者としての信頼を集めてきた存在であるが、アースルドゥーンのトマス・レアモントの予言詩をめぐって、その予言能力を妖精の国で獲得したという伝説が生まれ、このような歌となって、今日までうたい継がれてきたわけである。

ひとくちアカデミック情報: アンソロジー・ピース: 美しい詩文を選んで集めた詞華集を「アンソロジー」と言い、代表的な詞華集には必ずといってよいほどに選ばれる作品をいわゆる「アンソロジー・ピース」 と呼ぶが、通常「伝承バラッド」として馴染まれている作品と言えば、いわゆる「アンソロジー・ピース」と呼ばれる数篇に限られているというのが率直なところである。M・L・ローゼンタール編纂の『英詩アンソロジー』(Poetry in English: An Anthology, Oxford UP, 1987)に収録されているものは、「二人の姉妹」("The Twa Sisters", Child 10)、「ロード・ランドル」("Lord Randal", Child 12)、「三羽のカラス」("The Three Ravens", Child 26)、「うたびとトマス」("Thomas Rymer", Child37)、「サー・パトリック・スペンス」("Sir Patrick Spens", Child 58)の5篇、フランク・カーモードとジョン・ホランダー編纂の『オックスフォード英文学アンソロジー』(The Oxford Anthology of English Literature, 2 vols., Oxford UP, 1973)でも、「ロード・ランドル」、「三羽のカラス」、「サー・パトリック・スペンス」、「二人の魔法使い」("The Twa Magicians", Child 44)、「眠れぬ墓」("The Unquiet Grave", Child 78)、「アッシャーズ・ウェルの女」("The Wife of Usher's Well", Child 79)、「魔性の恋人」["James Harris(The Dæmon Lover)", Child 243]、「小人」("The Wee Wee Man", Child 38)、「チェリーツリー・キャロル」("The Cherry-Tree Carol", Child 54)、「ウィリーとリチャード伯の娘」("Willie and Earl Richard's Daughter", Child 102)の10篇である。チャイルドが編纂した305篇のほとんどは、特に日本の一般読者はもとより、英文学研究者にも十二分には知られていないのが実情である。

コメント   

0 # コカママ 2016年01月16日 11:23
本当に実在した人物が伝説となっ ていろいろな風評や記念碑が残っ ているということはありますよね 。例えば、弘法大師とか。「えつ 」という魚は、大師が笹の葉一枚 を川に流したらこの魚になったと いう伝説がありましたよね?旅行 すると「弘法大師が喉が渇いたの でわき上がった井戸」とかなんと か、いろんなものに出くわします 。トマスさんもその種の人たちの ひとりなのでしょう。緑のキンキ ラのスカートをは...
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