第108話 物語のバトンタッチー伝承から詩人へ

ウィリアム・ハミルトン『ヤローの川土手』
(William Hamilton of Bangour, “The Braes of Yarrow”, 1723)

今回取り上げる作品、ハミルトンの『ヤローの川土手』については、すでに第1部の27話で言及しているが、伝承バラッドのタイトルと詩のタイトルを敢えて同じにしているところに詩人の意図がうかがえる。伝承の物語の終わりを引き受けて、詩人はその先を創作したのである。

伝承では、結婚に反対した妻の身内の者たちとの決闘の末、夫はヤロー川の土手に倒れる。駆けつけた妻は夫を手厚く葬り、後を追って自らも命を断つという物語であった。

「行かないで 家で食事を
  ああ いままでどおり家で食事を」
「九時間すれば 戻ってくる 
    ヤローの土手から戻ってくる」 (5-8)

決闘に出かけようとする夫とそれを引き止める妻の対話に始まって、事件の経緯が時系列的に語られ、

女の髪は 三フィート
  両脇に垂れ きらきら光る金髪でした
女は それを首に巻き
    ヤローの土手に息絶えました (117-20)

と終わる、典型的な伝承バラッドの物語形式に則った作品である。

ハミルトンの作品では、冒頭「男」が「さあさあ支度を 愛(いと)しの新妻/さあさあ支度を 可愛い花嫁」(1-2) と新妻に呼びかけると、そばにいた「質問者」が「愛(いと)しの新妻 どこで手に入れたのです」とたずね、「男」が「ヤローの川土手」で手に入れたと答える。詩人は、伝承の最後の場面での女の後追いを無い事にして、別の男と結婚させているのである。「質問者」が「可愛い花嫁 なぜ泣くのです」と聞くと、「男」は「愛する男を亡くして 泣いてるのさ/ おれが その優男(やさおとこ)を殺(や)ったのさ」という。以下、30数行にわたって、二人は惚れた仲だったかもしれないが、自分の方が優男(やさおとこ)よりももっと女を愛していたのだと告白する。続く65行目から116行目まで「女」の独白が続いて、愛する人を殺した男のための花嫁支度など決してできないと訴える。理解してくれない父や兄、姉たちに対する恨み言を述べていた「女」の、突然幻覚に襲われた独白が続く。

さあさあ 愛の寝床を用意して
新床(にいどこ)のシーツで わたしの躰(からだ)を包(くる)んで
侍女(おまえ)たち 戸を開けて
わたしの夫になる方を 中にお入れして

でも 夫になる方って誰のこと
その人の手には血糊がべったり
ああ 向こうからやって来る亡霊は誰
白い経帷子(きょうかたびら)に身を包(くる)み 血をしたたらせて

顔は真っ青 さあ その人を横たえて
冷たい頭をわたしの枕に
花嫁衣装を脱がせておくれ
悲しみでいっぱいのわたしの頭に柳の冠を

顔真っ青なあなた 死ぬほど好きよ
わたしの体温(ぬくもり)で 蘇らせてあげる
ひと晩中 この胸に顔を埋(うず)めておやすみなさい
あなたが初めてよ 温かいでしょ (97-112)

死者が肉体を持った亡霊 (corporeal revenant)として訪れ、生者はそれを生きているものとして受け入れるという伝承バラッドのパターンは、ここでは成立していない。詩の最後を締め括るのは、この女の切ない幻覚を打ち砕く「男」のセリフである。

さあさあ 涙に暮れる花嫁よ
戻って来るんだ 詮無(せんな)い涙はとっとと乾かせ
おまえの恋人には 悲しい溜息など聞こえはしない
ヤローの川土手 奴はとっくにお陀仏よ (117-20)

Dryhope
Dryhope Tower

舞台となった「ヤロー川」は、聖メアリー湖からエトリックの森をうねり、エトリック川と合流してツイード川に向かう、スコットランドとイングランドの国境ボーダー地方を象徴する川である。聖メアリー 湖の東の端からヤロー川に沿って歩いてゆくと、すぐ近くの農家の牧場内に今や崩れかかった石造りの建物が見えてくる。辺りに放牧された牛を恐る恐る避けて近づいてみると、空洞の中は悪臭を放つ牛の糞で足の踏み場も無く、朽ちかけた建物の天辺からは木と草が無造作に生えている。これが「ドライホープの館に美しい女が住んでいました」("At Dryhope lived a lady fair" Child 214L)などとうたわれた16世紀の 'Dryhope Tower'の廃墟で、メアリー・スコット (Mary Scott) の館であった。現実の彼女は1576年にその地の豪族ウォルター・スコット(Walter Scott of Harden)と結婚しており、伝承でうたわれているような事件が実際に結婚前に起こっていたのか、それともこれはまったく架空の物語なのか、真相はわからない。‘Dryhope Tower’は1592年、国王ジェームズ六世の命令によって一旦は取り壊しの運命を迎えた。 結局、取り壊しは実行されなかったが、館そのものは廃墟と化していった。想像するに、ハミルトンもその地を訪ね、ヤロー川のほとりに佇んでこの廃墟を目にしただろうか。

ジェームズ六世は、悲劇のスコットランド女王メアリの子として生まれ、母亡き後ジェームズ六世となりながら、スコットランドとイングランドの統合後は(エリザベス一世の後を継いで)ジェームズ一世として両国を治めた。時経て、スコットランドのジャコバイト派詩人ハミルトンは、1745年のチャールズ王子(‘Bonnie Prince Charlie’ことCharles Edward Stuart)が率いた反乱に組して、イングランド軍を撃破したプレストンパンズ(Prestonpans)の戦いの勝利を"Gladsmuir"という詩にうたうなどしたが、カローデン(Culloden)の戦いでの敗北後ハイランドに逃れ、その後フランスに脱出、最後はリヨンの地で肺炎のために亡くなった。詩人にとっての‘Dryhope Tower’は、伝承バラッドの象徴的な存在であったと同時に、やがて自らが巻き込まれてゆく事になる、運命に翻弄されるスコットランドの歴史を象徴する存在であったのだろうか。

[今回の論の詳細については、拙論「ヤロ−川詩情: “The Braes of Yarrow”」(1995)を参照されたい。]

ひとくちアカデミック情報 :
ジャコバイト:1688年イングランドで名誉革命が起こった。イングランド王ジェームズ2世(スコットランド王としてはジェームズ7世)が王位から追放され、ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王位につく。この革命によって旧教(カトリック)は完全に潰され、イングランド国教会の国教化が確定した。「ジャコバイト」とは反革命勢力の通称であり、彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持した。数度にわたるジャコバイト蜂起を経て、チャールズ・エドワード・ステュアートは1745年8月、父ジェームズのためにイギリス王位を取り戻す最後の戦いを挑んだが、結果的に、翌年4月のカローデンの戦いで大敗して反乱は収束した。「ジャコバイト」は、ジェームズのラテン語読みであるJacobusから。