balladtalk

第97話 真相は闇の中
「ボズウェル伯」 (“Earl Bothwell”, Child 174)

何年何月何日に何が起こったと述べることは、歴史的事実として概ね差し支えなかろう。しかし、それが何故起こったかということになると、途端に回答は一つではなくなって、真相は闇の中ということは多々あることである。事件が起こっている最中においてもそうであり、ましてや、時経てば経つほどそうである。実際に起こったかも知れない事件を題材にしている多くのバラッドの物語は、まさにその曖昧な部分を物語化していると言っても過言ではあるまい。

スコットランドの歴史的政争はその好例である。「なんと悲しいことだ/・・・/かつてないほどの立派な王様を/闇夜にまぎれて手にかけるとは」と始まる今回の「ボズウェル伯」で、この「かつてないほどの立派な王様」が誰を指すかを特定できる人はまずあるまい。続くスタンザで、「フランス王妃様」が「ダーンリ卿」に手紙を書いて、スコットランドに来れば結婚して王様にしてあげると言ったということからして、解説抜きには話について行けなくなりそうである。ここに言う「フランス王妃」というのはスコットランド王ジェームズ5世(1512 – 42)とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの間に生まれたメアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542 – 87)。彼女は、父ジェームズ5世の急死によって、生後6日で王位を継承したが、政争を逃れて、5歳の時からアンリ2世のフランス宮廷で育てられる。15歳の時、フランス皇太子フランソワと結婚する。翌年アンリ2世が亡くなって、フランソワが即位し、メアリーはフランス王妃となった。

Child 174 earl bothwell bt
陣内敦作

1560年にフランソワ2世が16歳で病死すると、翌61年にメアリーはスコットランドに帰国する。1565年にステュアート家傍系の従弟ダーンリ卿ヘンリー (1545-67)と再婚。結婚した二人の仲がどのようであったかということには一切触れず、話は、宮殿に雇われた一人のイタリア人楽師デイヴィッド・リッツィオ(David Rizzio, 1533 - 66)に移る。彼は女王様のお気に入りで、その振る舞いが厚かましく、貴族たちの腸(はらわた)が煮えくり返ったという。結果は、女王の目の前で「十二もの剣が一斉に彼を突き刺した」のである。話がここまでだと、リッツィオを殺したのは彼の態度が許せなかった貴族たちのように受け止められよう。しかし今度は掌を返して、「女王の秘書官殺害の罪で/王を即刻処刑すべき」と、リッツィオ殺害の真犯人を王様ダーンリと特定して、貴族たちの憤りが王に向かう。彼らは王様の部屋に火を放つ。その時城壁の下にいたボズウェル伯に助けを求めるが、結局王は城の外の果樹園に連れて行かれ、梨の木に吊されて殺されてしまう。その後、ボズウェル伯こと第四代ボズウェル伯ジェイムズ・ヘップバーン(1535-78)はメアリーと結婚するが、「善良な王様が殺されたという知らせ」がスコットランドの摂政に届く。追放された女王メアリーはイングランドに逃れ、従姉妹のエリザベス女王の保護を受けることになったとうたって話は終わる。その後18年間にわたる幽閉の後、エリザベス女王がメアリーの死刑執行に署名をしたということはまた別の歴史である。一方、ボズウェル伯は逃走後、ノルウェーへ漂着、デンマークのコペンハーゲンに移されて、そこで1578年に亡くなったという歴史もまた、この歌の外にある。「ボズウェル伯」というタイトルにもかかわらず、この歌は「立派な王様」の理不尽な死をうたっているのである。

チャイルド編纂のこの歌174番“Earl Bothwell”の出典はパースィ写本で、そこでのタイトルは “Earle Bodwell”であった。しかし、それをパースィがReliquesに掲載した時には、そのタイトルは “The Murder of the King of Scots”と変更されていた。その頭注でパースィは、「なんと悲しいことだ/不実なスコットランドよ/汚い陰謀をはたらくとは/かつてないほどの立派な王様を/闇夜にまぎれて手にかけるとは」という出だしについて、二十歳で結婚したダーンリは未だ若過ぎて、その上性格的にも虚栄心が強く気まぐれなところがあったかもしれないが、それはいずれも年齢からくる未熟さであって、暖かく見守っていけばいずれ立派な王様になったところを、余りにも残酷な仕打ちであったと述べている。これに対して、Reliquesの編者ヘンリー・B・ウィートリー (Henry B. Wheatle, ed. Reliques of Ancient English Poetry. 1886)は、そもそもダーンリには性格的な弱点となるべき何らの証拠もないところに、パースィが一方的な性格付けをしている、と批判している。

真偽のほどはともかくとして、興味深いのはタイトルの変更である。パースィでは明らかに「スコットランド王の殺害」がテーマである。しかし、チャイルドが採用した写本のタイトルとなると、王の殺害者ボズウェル伯に視点が向けられるわけで、メアリー女王のイングランドへの逃亡直後にこの歌が作られ、従って最後の行で「スコットランドのことはお構いなし/イングランド女王様の恩恵をうけ/今もイングランドに居残ったまま」という「今現在」の状況をうたっていることからも、ダーンリ王を見捨てたボズウェル伯と、リッツィオ殺害後「夫とは褥(しとね)を共にしない」と誓い、夫が殺されたにもかかわらず程なく結婚したメアリー女王という、この二人の結婚をスキャンダルとして、ブロードサイド・バラッド格好の話題にしたということだろうか。

ひとくちアカデミック情報:
パースィ写本: ‘Percy’s Folio Manuscript’と呼ばれる古いバラッドの写本をパースィが入手した経緯については第16話の「ひとくちアカデミック情報」で既に紹介しているところであるが、その歴史的写本が19世紀に入って出版された。F. J. Furnivall, and J. W. Hales, eds., Bishop Percy’s Folio Manuscript: Ballads and Romances, 3 vols. (1867-68)である。これによって、元々の写本とパースィが出版したものとの間の差異が判ってきて、編集者パースィの加筆修正が明らかになってきた。中には “The Child of Elle” (Child 7F)のように、写本で39行の断片的なものをパースィが200行という、5倍の長さの話にまとめたという例もある。

*データ管理上の都合により、コメント欄はしばらく非公開にさせていただきます。どうぞご了解くださいませ。