第103話 消えゆくフォークロア
トマス・ティッケルルーシーとコリン』(Thomas Tickell, " Lucy and Colin”, 1725)

詩人トマス・グレイ (Thomas Gray, 1716-71)が「世界でもっとも美しい詩」と称えたこの作品は、伝承バラッド 『マーガレットとウィリアム』 ("Fair Margaret and Sweet William", Child 74) を元歌としているが、バラッド詩の「模倣と逸脱」を考える上で、典型的で分かり易い作品と言えるものである。

元歌は、このバラッド・トーク第1話に登場した作品である。繰り返しになるが、物語の梗概を掻い摘んで紹介すると、ウィリアムが恋人マーガレットとの結婚の許しを得ようと、彼女の屋敷にやってくる。父親から冷たくあしらわれたウィリアムは、別の女と結婚すると言って去ってゆく。彼が新しい恋人と教会に向かう姿を見たマーガレットは、屋敷を出て、二度と戻って来ない。結婚式の一日が過ぎて、夜が来て、皆が寝静まった時、マーガレットの亡霊がウィリアムの足元に立つ。そこからは二人の会話である。「ウィリアム ベッドの心地(ここち)はいかがです/シーツの心地(ここち)はいかがです/腕に抱かれてぐっすりおやすみになっている/栗色の奥様はいかがです」とマーガレットの亡霊が尋ねると、ウィリアムは答えて、「マーガレット ベッドの心地(ここち)はけっこうです/シーツの心地(ここち)も けっこうです/でも ベッドの足元に立っておいでの/色白のお方のほうがもっとよい」と言う。会話は、まるで生きているマーガレットがウィリアムと話しているようである。ウィリアム自身に、 亡霊に驚いたり、怖がったりしている様子は微塵も無い。翌朝、ウィリアムがマーガレットの屋敷に出かけていって、居場所を尋ねると、彼女は死んで、お棺の中だと知らされる。マーガレットは昨夜の内に死んでいた。 ウィリアムも後追いし、二人の墓の上にはバラとイバラが生えて、 「バラとイバラは大きくのびて 恋結びを結(ゆ)いました/こうして二人は 死んで結ばれたのでした」とうたわれて、話は終わる。捨てられたマーガレットが屋敷を出た後、どのようにして死んだかという経緯はいっさい省略されている。バラッドをうたってきた民衆がこのような物語歌を創るとき、そこには「生」と「死」を峻別しない、一連の「生」のドラマとして捉えてゆく豊かな想像力が働いていた。 最後に二人が植物になって結ばれたという「変身」(第3話の「ひとくちアカデミック情報」参照)も、民衆の優れた想像力が生み出した典型的なフォークロアの一例である。

この伝承バラッドを模倣したマレット(David Mallet, ?1705-65)の『マーガレットの亡霊』("Margaret's Ghost"、別名 "William and Margaret")がアーロン・ヒルThe Plain Dealer 新聞(1724年7月24日号, No. 36) に(最初、匿名で)発表されて、当時大変な人気を博していた。後にReliques (1765) 第3巻に収録され、編者パースィは 「英語その他どの言語で書かれたバラッドの中でも最も美しいものの一つである」と称えたほどであった。1685年にイングランド北部に生まれ、 オックスフォード大学クィーンズ・カレッジに学んだティッケルはジョゼフ・アディソン と親交深く、1717年にはアイルランド総督の元で国務大臣であったアディソンの政務次官を務め、24年以降死ぬまでアイルランド最高法院判事秘書を務めた。その間、26年にはダブリンで結婚もしている。スコットランド詩人マレットに対抗したティッケルは、舞台をダブリン中心部を流れるリフィー川のほとりと設定して「ルーシーとコリン」を書いたのであった。(作品名が"Lucy and Colin”となっている場合と”Colin and Lucy”と逆になっている場合とがあるが、本来は前者である。)

「器量よしの娘たちで知られたリンスターでも/ルーシーは一番の華(はな)だった/リフィー川の澄みきった流れも いままで/これほどに美しい顔を映したことはない」といってこの作品は始まる。その彼女がどうして「不幸な恋に身を灼(や)く」ことになったのかという経緯そのものは説明されない。他方で、伝承では屋敷を出たマーガレットがどのようにして死んでいったかは何も語られないのに対して、バラッド詩では、「打ちつける雨のなかで/蒼(あお)ざめゆく百合の花」のようにと、比喩表現で死に際の様子が強調される。泣き伏す村の娘たちに囲まれてルーシーは、「偽りの心と 裏切られた契りの所為(ため)に/あたしは 花も咲かずに死んでゆく/自業自得なのかしら 彼のお嫁さんは/あたしより三倍も金持だったのだから」と、綿々と溢れる思いを語るのである。そして最後に、明日教会での結婚式の場に自分の「死体」(‘corse’)を運んでくれと頼む。詩人は、「あの人は 鮮やかな婚礼衣装を身にまとい/あたしは 経帷子(きょうかたびら)に身をつつみ」(‘He in his wedding-trim so gay, / I in my winding-sheet.’)と、直截簡明な対照表現を駆使している。結婚式初夜のベッドの脇に立って、まるで生きているもののように恋人と話をする伝承と違って、死体として運ばれたルーシーを見たコリンを襲ったのは「困惑 恥辱(ちじょく)後悔 絶望」('Confusion, shame, remorse, despair')であったという。このように、状況説明に抽象語を羅列していることは、無視できない大きな変化である。伝承でウィリアムの後追いを「悲しみのために息絶えました」という素朴な表現で済ませているのに対して、詩人が羅列する抽象語は果たしてコリンの気持ち、その中身をよく伝えうるだろうか。

実はこの問題は大変微妙で、「困惑」とか 「恥辱」とか「後悔」とか「絶望」といった抽象的な表現にわれわれは最早すっかり慣らされていて、何の疑いも無くその気持ちを当然「わかる」と思うようになっているところがあるだろう。直喩や暗喩などの古典的な比喩表現を使って物事を平易に理解しようとすることと違って、具体的なイメージを結ばない観念的な抽象語は難解で、それ故に高級であるとする価値観の誕生である。不特定多数の民衆の共有財産であった伝承バラッドは、当然のこととして誰にでも分かる言葉で語られていた。それに対して、プロフェショナルな詩人の言葉には段々と一般の人にはわかりにくい抽象表現が増えてゆき、「詩」が「難しくてわからない」と思われるようになってきたのである。ワーズワースが、人々が実際に日常的に使う言葉で詩を書くべきであると主張したのは、こういう事情からであった(第41話の「ひとくちアカデミック情報」参照)。

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"Colin and Lucy" from S. C. Hall, ed. The Book of British Ballads.


伝承でのウィリアムが後追い自殺したことは素朴に納得できたとして、コリンが「困惑 恥辱(ちじょく) 後悔 絶望」に胸張り裂けて死んだと言われると、逆に、その強調される抽象表現が必ずしも死と直結し難い、説得力の不足を感じる。死んだコリンの死体が若者たちに運ばれて、ルーシーと同じ墓に埋葬される。伝承では、死んだ二人が植物に変身して結ばれたとする、古来の’metamorphosis’信仰を表しているが、詩人の時代にはそのようなことは最早信じられない。詩人は、「おなじ草棄の蔭で おなじ土をかぶって/いつの世までも コリンはルーシーと一緒に眠っている」と感傷的にまとめるつもりかも知れないが、現実は、二つの「死体」が一つ墓に埋められているという事だけで、案外二つの死体は背を向けあっているかも知れない。だから、伝承のように、死んだ二人が「恋結び」で繋がるのではなくて、この墓を訪れる村の若者と村の娘が誓いの恋結びを墓にかけるのである。フォークロアに彩られた伝承バラッドの、近代的な変容の姿である。


ひとくちアカデミック情報
アーロン・ヒル:Aaron Hill, 1685-1750. イギリスの詩人、劇作家、文筆家。1724年3月23 日から25年5月7日の間、The Plain Dealer紙を発刊。商業目的というよりも、知人・友人たちの作品の発表の場を提供し、また、新しい文学的才能の発掘を目的とした。

ジョゼフ・アディソン:Joseph Addison, 1672-1719. イギリスのエッセイスト、詩人、劇作家、政治家。オックスフォード大学を卒業後、国会議員となる。伝承バラッドに対するイギリス詩人たちの関心を遡る時、イングランドの宮廷詩人サー・フィリップ・シドニー(Sir Philip Sidney, 1554-86)が『詩の弁護』 (The Defence of Poesy, 1595)の中で「心揺さぶられた」と称賛した’The Hunting of the Cheviot’ (Child 162)をアディソンは、本格的な文学論の対象として取り上げた。The Spectator誌の第70号と74号(1711)の二度にわたって、バラッドの 簡潔で自然な文体を通して伝わってくる精神の高潔さがホーマーやヴァージルにも匹敵する高度の文学性を持っていると主張したのである。文学史家エミール・ルグイは、この伝承歌がコールリッジらのロマンティシズムを誘発した詩となったと評価した。[Cf. É. Legouis, and L. Cazamian, A History of English Literature (London: J. M. Dent and Sons Ltd., 1971) 178]