第110話 掻き消される民衆の叫び 
ロバート・サウジー 『ブレンハイムの戦い』 (Robert Southey, "The Battle of Blenheim", 1798)

1960年代に公民権運動が高まる中フォーク歌手シーガー (Pete Seeger, 1919-2014)が広め、運動を象徴する歌となった"We Shall Overcome"を、シーガー と共に60年代を代表したバエズ(Joan Baez, 1941- )が2010年2月9日ホワイトハウスで、当時の合衆国オバマ大統領を前にうたった動画をわれわれはネット上で観る(聴く)ことができる [これは現在非公開となったために、BBC Television Theatre (London - June 5, 1965)]のものに置き換えている;「歌の箱」参照)、その一方で昨今の無抵抗黒人殺害の光景と現ホワイトハウスの主の言動には、後退する時代の流れに恐怖心さえ覚えるものがある。

バエズがベトナム反戦歌フォークソングと共にうたった数々のチャイルド・バラッドも、広い意味での反戦の歌になると受け止めることに異論を差し挟む人もかつてあったが、直接的な反戦の語句がある無しに関わらず、バラッドをよく知り、それが民衆 (folk)の歌であったことに共感する者には、権力者や体制に阿(おもね)ない、「戦争」に象徴されるすべてのものを虚しいと思う心情がバラッドの底流としてあったと感じられるのではあるまいか。

『チェヴィオットの鹿狩り』 ("The Hunting of the Cheviot", Child 162 ; 第48話参照)は、16世紀イングランドの宮廷詩人シドニー (Sir Philip Sidney, 1554-86)が「粗雑な古い歌」だけれども感動したと述べたこと、18世紀に入ってアディスン (Joseph Addison, 1672-1719)が、「簡潔で自然な文体を通して伝わってくる精神の高潔さ」はギリシア・ローマの古典文学にも匹敵すると称えて、後のロマン派詩人たちに大きな影響を与えたことで有名である。2,000人のスコットランドの槍兵で残ったのは55人、1,500人のイングランドの軍勢で家に戻れたのは53人だけ、残りは全員、チェヴィオットの緑の森で命を落したという、鹿狩りが引き起こしたこの事件は、スコットランドとイングランドの国境を舞台にして繰り広げられた様々な戦いを象徴するものとしてうたい継がれていった。その歌の冒頭で、「のちの世に生まれる子らも/その日の狩りを悲しむでしょう」 (st. 2)と、時代を超えて戦いというものが残してゆく爪跡、夜が明けて駆け付けた女たちが夫の死を嘆き悲しむ、「真っ赤な血糊の夫の遺体を/女たちは連れ帰り/何千回もくちづけをして/土の中に埋めました」(st. 56) とうたわれる、嘆き悲しむことの「すべては虚しい」 (st. 55)という虚無感、今日に至るまで綿々と続く戦(いくさ)、それは人間が永遠に克服することのできない性(さが)であろうか。(注)

理想的な平等社会(Pantisocracy)の建設(第101話「ひとくちアカデミック情報」参照)を夢見たサウジーの 『ブレンハイムの戦い』は、実際に起こった戦争を題材にした優れたバラッド詩である。「ブレンハイム(英語名「ブレニム」)の戦い」は、18世紀初めにスペイン王位の継承者を巡ってヨーロッパ諸国間で争われた戦争(1701-14)で、イングランド・オーストリア同盟軍がバイエルン選帝侯国(ドイツ)・フランス連合軍を破り、イングランド側の死者4,500人、負傷者7,500人だったに対し、フランス側の死者等は3倍近くに上ったという、15年間にも及んだ大激戦であった。

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勝利した同盟軍総司令官マールバラ公チャーチル(John Churchill, 1st Duke of Marlborough, 1650–1722)は、アン女王から恩賞としてオックスフォードの領地を、そして、その地に建設中だったブレナム宮殿を与えられた。

詩は、カスパー爺さんと二人の孫、ウィルヘルミンと弟のピーターキンの会話で成り立つ。仕事を終えて、小屋の入り口に座って夕日を浴びていた爺さんのそばで、孫たちが遊んでいる。ピーターキンが「何か大きな丸いもの」を転がしている。小川のそばで見つけたものらしい。弟は、「これなあに」と訊いてくる。「とても大きくて ツルツルして 丸(まある)いもの」を受け取った爺さんは、やがて、頭(かぶり)を振って、思わずため息をつきながら言う。

「これは可哀想な兵隊さんの頭蓋骨だよ
立派な勝利の戦場で倒れた兵隊さんだ

Southey B of Blenheim
Illust. by Charles Green: “’Tis some poor fellow’s skull, ...  / Who fell in the great victory."

お庭でも見つかるよ
 この辺りにはたくさんあるんだ
爺ちゃんも畑でしょっちゅう
 鋤の刃が当たって掘り起こすんだよ
たくさんの たくさんの兵隊さんたちが
立派な勝利の戦場で殺されたのさ」(sts. 3-4)

何の戦いだったのか、何のために戦ったのかと訊く孫たちに、イギリスがフランスを負かした戦いだったのだが、何のために戦ったかは爺ちゃんにもよくわからない、でも「みんなが口をそろえて/それは有名な勝利だった と言っている」とカスパー爺さんは言う。

剣を交えて 火を放たれて
 国中(くにじゅう)が焼け野原
お腹(なか)の大きなお母(かあ)さんたちや
 生まれたばかりの赤ちゃんが たくさん死んだ
でも そんなことはネ
どんな有名な勝利にも付きものなんだ

戦い勝った後の戦場は
 見るも痛ましい光景だったそうだ
何万もの死体がゴロゴロ横たわって
 強い陽差しに腐っていくんだ
でも そんなことは
有名な勝利の後では当り前さ (sts. 8-9)

「勝利に導いたマールバラ公バンザイ」と最後に爺さんが言うと、「違うわ それはとても酷い(ひど)ことじゃなかったの」と孫娘ウィルヘルミンが言い、「いいや いいや おまえ/それは 有名な勝利だったんだ」と爺さんが繰り返す。

みんなが公爵を褒めたんだよ
 なんせ この大戦(おおいくさ)に勝ったんだから」
幼いピーターキンが
 「でも 後でどんないいことあったの」
「爺ちゃんにもよくわからん
でも それは有名な勝利だったんだ」 (st.11)

「それは有名な勝利だったんだ」と繰り返す以外、カスパー爺さんに孫たちを説得する言葉は見出せない。子供たちの疑問は掻き消され、残るのは「有名な勝利だった」と言う「歴史」と、それを伝える「ブレナム宮殿」と言う遺物である。のちのイギリス首相ウィンストン・チャーチルや皇太子妃ダイアナ・スペンサーの先祖が賜わった宮殿は1987年に世界遺産に登録されたが、名も無き民衆の叫びは詩人の一遍のバラッド詩に残されたのみである。

(注)『チェヴィオットの鹿狩り』(Child 162)からの引用訳文は、『全訳 チャイルド・バラッド』第1巻の電子書籍(Kindle本、2020年4月刊行)から。

ひとくちアカデミック情報
ブレナム宮殿: Blenheim Palace. イギリスのオックスフォード近郊のウッドストックにある宮殿。本館と柱廊でつながった2つの翼棟からなるイギリス・バロック様式の屋敷は部屋数200以上をもち、庭園の総面積は4,600ヘクタールに及ぶ。17年の年月をかけて、1722年に完成。その広大な庭園については、宮殿完成時には、アン女王お気に入りの庭師・宮廷画家だったワイズ (Henry Wise, 1653-1738)によって設計されたロマン主義的なイギリス式庭園だったが、18世紀中頃ブラウン (Lancelot Brown, 1716-83)によって人工湖や運河を配置した風景式庭園に改造された。その後、1925年から32年の間にル・ノートル様式のフランス庭園に改造され今日に至っている。1987年に世界遺産に登録された。